◯阿部醒石師範の紹介

〜阿部師範、合氣道との出遇いについて語る〜


「盛平翁のいのちに接して」(『合気ニュース』no.105 [夏号]より)
天之武産塾合氣道々場主 阿部醒石師範 会見

 

 

 

 

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1. 書を志す

Q:書の道へはいられたきっかけ?

阿部師範:

 私は学校の教師(はじめは小学校、次に女学校、中学校、高校、大学)をしてまして、先生として子供たちに教えることで何が一番大事かと考えたとき、それは親のことであると。なにしろこの国では、自分を考える前に、自分の家、先祖を考えますね。
そして、私自身が親のことを考えたときに、私の父の特技は書であり、その親を大事にするには筆を持つ方がいいと思ったわけです。私の使命ですね。私の母 親の名前が不思議なことに「フデ」(笑)。これはもう書道で身をたてるしかないという結論が出たわけです。 父の習った先生は寺西易堂といって、大阪では有名な書道家だったんです。父はその人の流れをくんだ達筆な人でした。その後を継ぐのが自分に一番適している だろうと、それで書道を始めました。

Q:代々書をなさっていたのですか?

阿部師範:

 先祖代々の流れです。そういうふうな流れの残っている作品が額に入って家のどの部屋にもあった。それを小さいときから見て育ちました。

Q:本格的におやりになられたのは学校の先生になられてから?

阿部師範:

 そうです。教師になったのが19歳で、それから兵隊に行き、兵隊から帰ってから専門的に書道を始めました。

2. 禊との出遇い

Q:書で行き詰まっておられたときに禊会との出遇いがあったということですが?

阿部師範:

 書道は形をまず習う。形には中国の漢の時代から数千の美しい形が今に伝わっている。だから形の行き詰まりはない。
次に書道を「形と線」に分けたら--- 「線」という言葉はいけないんだけど--- この「線」に行き詰まるわけです。わかりやすく言えば、線の太いか細いかはわかる。しかし、深い浅いになると、浅いのはわかるけど深さをどうやってだすの か。深さ は目に見えないが、これは書道の生命です。線には形から見える太い細いと、勢いのあるなしがあり、それ以外に目に見えない深さがあり、それと高さがある。 それに私は行き詰まりました。
そうしたときに、二木謙三先生(戦前の盛平翁の弟子、医学博士)の禊会との出遇いがあったのです。「禊の錬成会」というのがあって、自分の持てる肉体、 筋力以外に、自分の中にある力、目に見えない心の強さといいますか、今の言葉で言えば「氣を引き出す禊」を教えるという話を 聞きまして、さっそく申し込んだんです。すでに申し込みの期限は過ぎていましたが、特別に許されて第1回目の禊会に入れてもらったんです。合宿みたいな形 で、約一週間の講習会でした。

Q:禊会は二木先生独自のものですか?

阿部師範:

 そうですね。先生からは川面凡児(かわつらぼんじ)先生(禊を集大成された哲学者)の行法を習ったわけです。川面凡児先生の弟子で巽健翁(たつみけんおう)という人が。川面式の行法を二木先生の会で教えて下さったのです。

Q:具体的にどんな修行をやられたのですか?

阿部師範:

 主な行法が八つあるんです。水をかぶるのもその一つ。行としては、

  1. 祝詞(のりと)奉上
  2. 水の行
  3. 振魂(ふりたま)の行
  4. 天の鳥舟(あめのとりふね)の行
  5. 鎮魂の行
  6. 雄叫・雄詰、伊吹の行
  7. 減食の行
  8. 分魂統一の行があります。

Q:こうした行法は大本教との関連があるのでしょうか?

阿部師範:

 二木先生や川面先生がやっておられたのは、宗教ではなく、日本の習俗ですね。古代の日本人が日常やっていたことを形式にしたのが禊なんです。
つまりインドから来た仏教的なもの、中国から来た儒教的なものではなく、禊は古事記に明記されておりますように、日本に元々あって誰もがやっていたもの、それを形づけたものです。そしてそれを誰もが後をついでいけるように、形に残されたのが川面先生なんです。

Q:川面先生は禊の本を残されていますか?

阿部師範:

 『川面凡児全集』(10巻)が残っています。川面先生の本は全部漢文で書かれていますが、日本人にわかりやすく書かれたのが、この全集です。立派な本ですよ。禊を通して川面先生を知っていただきたいですね。
川面先生は哲学者であり、今でいう宗教学者ですから、先生の禊は哲学的で難しい。一方二木先生は医学者、現代にも通じる医学博士ですから、分かり易い。二木先生は古事記の研究もやっておられて、この禊の会で古事記と祝詞の解釈をして下さった。

Q:修行の一環としてですか?

阿部師範:

 そう、主題がそれだったんです。水をかぶる行の間に、古事記と祝詞の解釈をして下さった。水をかぶる行は30分ぐらいで、長くても1時間。それを朝1回、昼に2回、そして晩と、一日4回やるんです。
また二木先生は玄米博士でもありますね。禊で一番難しいのは、食を減らすということです。ふつうに食べていてはふつうの考えしか起こらない。玄米は食事 からいったら一番上等の食べ物ですね。それを少し食べる。減食ということが禊では大事なのです。生きたものを少し食べる。それが第一、そして水をかぶる。 水をかぶると寒いですから、振魂やったり、そのあと鎮魂帰神をやる。「深くて高い、口では表現できない境に、それが我が生きている、生きる道である」との 悟りの行です。

3. 植芝盛平翁との出遇い

Q:そうした禊の修行で、書の行き詰まりは解決されましたか?

阿部師範:

 それは変わりましたね。そしてそのときに私は二木先生に合氣道を勧められたのです。実際に二木先生に投げられて合氣道に興味を持ったのがこのときです。
二木先生は、「この国にはこういう素晴らしい武道がある。おまえたち若い者はタガがゆるんでいる。機会があったらこの合氣道をやりなさい」と仰ったんで すね。二木先生の技があんまり素晴らしかったので、いつかどこかでやらねばならないとおもっていたんですが、当時は時代がそんな時代ではなく、戦争がだん だん激しくなっていた。盛平先生は東京で戸山学校や中野学校などで、合氣道を教えておられた。だから民間にはあまりでてこられなかったんです。

Q:盛平翁との出会いは?

阿部師範:

 昭和27年、合氣道を大阪で広めたいということで、田中万川さん(大阪合氣会初代会長、1988年死去)が道場を建てて、その道場開きの翌日にたまたま 私が道場の前を通ったら、「植芝盛平」という表札がかかってるのに気づいたのです。田中万川さんとは知り合いでしたが、田中さんが合氣道をやっていること は私は知らなかったんです。で、玄関を開けたら万川さんがいて、「植芝先生おられるんか」と聞いたら、「そうなんだ、昨日道場開きしたんだ」と。
しばらくして翁先生がいらっしゃって、それが初対面でした。そのときに、「私は二木先生の弟子です」と言いましたら、すぐ「上がれ上がれ」と言われてね。
そのときに聞いた翁先生の話は難しかった。鎮魂帰神のうんと上のほうの話をなさった。その話をとうとうとなさったのち、「明日からお前来い」と(笑)。

Q:その日から弟子入りというわけですか?

阿部師範:

 そうです。その時分は滅多に弟子入りができないんですよ。当時は紹介者が2人いないと教えて下さらなかったんですから。

4. 書と合氣道

Q:禊、合氣道とやられて、書にはどういう影響があったのでしょうか?

阿部師範:

 一つに繋がっていくんですよね。合氣道は捻ったり、痛めたり、投げたりというのではなく、究極はそういうものから離れた《氣》です。
書の場合も、文字の形は五千も一万もありますが、形を習い、線を習い、次に求めるのは、形を追求しない、線も追求しない、それらを超えて求めるのは《氣》だけです。それが全く一つになったわけです。そういうことに気づいて、両方一生懸命にやりました。

Q:先生は「呼吸にこそ書の真髄がある」ということを仰っていますが、この呼吸というのは合氣道の呼吸と同じですか?

阿部師範:

 まったく一緒です。書を教える場合、何を教えるかということですね。形を教える、書き方を教える。そこに、あともう一つを教えないと、すたれてしまいます。

Q:その〈もう一つ〉が大事なわけですね?

阿部師範:

 そうです。今書道はものすごく盛んですが、〈もう一つ〉があんまりないような気がしますね。

Q:それには自分なりに模索、修行していかなければならないと?

阿部師範:

 それをつかめれば、大きな作品で自分の力を問うとか、自分の学び得た、つかみ得た技術を次の世代へ伝えてゆけるわけです。作品でゆくか、自分が仲立ちして伝えてゆくか、この二つがあるんですね。

Q:翁先生はそもそもどのようなことをきっかけに書をお始めになったのでしょうか?

阿部師範:

 私と出会う前から書いていらしたとは思いますが、書いて残されているものは少ないと思います。
昭和29年に新宮の引土道雄さんの道場開きがあり、それに呼ばれて翁先生と行ったわけです。1ヶ月ほど滞在したのですが、翁先生は何もしないで人を遊ば しておくのが嫌いですから、稽古の合間の空いた時間に「書道を教えなさい」と言われたわけです。写真屋の久保さんという方が書道を習う弟子を集めてきてく れて、私はそこでアルバイトをしていましたよ(笑)。
盛平先生は私がそうして教えているのを見られて、「おもしろいな、わしも書いてみようか」と書かれたのが始まりでした。そのときの作品があるはずですが、「合氣」と書かれました。
新宮から帰ってからも書を続けられて、私のところへいらっしゃるときは必ず一日は書かれていました。それが一番楽しみだったんですね。

Q:師匠である植芝先生を指導されていかがでしたか?

阿部師範:

 植芝先生は私の合氣道の師匠で、弟子が師匠に教えるというのは考えられないことですから、手本をわたさずに、見ておいて下さい、ということでまず私が書 くわけです。それを見てらして、ご自分で書かれる、といった感じでした。私が書くと、「ああいう書き方もあるんじゃなあ」といった感じでした(笑)。
一番難しかったことは、作品を一気に書かれて、名前の書かれる場所、位置を明示することでした。一カ所しかないところです。そこを指す、この一瞬の氣が、合氣の氣です。阿吽の氣の存するところでした。

 盛平先生が指で書かれたものがあります。めずらしい作品です。水墨画では指で描かれた作品もありますが、たぶんそういうことを盛平先生は知っておられて、それならわしも指で書を、と思われたのだと思います。こういうところの発想が他の人と違いますね。
筆で書いておられるときは、緊張されていて、自分のすべてのものが筆先に出ている。墨を通して氣が中に入っている。ですから、盛平先生が書かれたものか らはものすごい氣を感じますね。書に顔を合わせたり、手を合わせただけで、ぱーっと氣が移ってきますよ。字を読めない外国の方のほうがそうした氣を強く受 け取っていますね。
書かれるときは一気に書かれる。また呼吸などはあまり考えられない。

 振魂(ふりたま)やおたけびも同じで、盛平先生はまず、息を3口ほど吸いなさいとおっしゃる。その最初の呼吸法だけを教えて下さる。無意識に始めるので はなく、きちんとここ〈肚〉におさめてから振魂を始めなさいというわけです。書にも合氣道にもそういうことは繋がっていくわけです。

 

5. 自宅で行った内弟子修行

:先生は合氣道を内弟子として始められたのですか?

阿部師範:

 私の場合は、本部の内弟子や通いの内弟子と違って、我が家における内弟子でした。
つまり、私の家に盛平先生がいらした、ということです。別に盛平先生の部屋を一つこしらえたわけです。そこで師匠と内弟子との間が結ばれたわけですね。 昔の厳しい、武士動的な師と弟子の関係でした。おしつけられた厳しさではなくて、内弟子が師匠に仕える《道》というものです。それを私は心得ていたわけで す。そこまでしなくては、師匠の呼吸はとれない。1日24時間 同じ屋根の下にいるわけですから、学び取るものは技術だけではない、その人の生き方、呼吸法です。
24時間そばにいて、氣を練るわけです。大先生の喜怒哀楽というものがみな伝わってくる。大先生がいらっしゃるときはだいたい1週間、長いときで10日ぐらいでした。その間大先生のいわゆる、いのち、生命に接していたわけです。これがすごかったですね。
たとえば先生にお茶を出すにしても、先生がどのくらいのどが渇いていらっしゃるかを察してお茶の温度を考えなければならないし、お風呂を沸かすのだっ て、気をつけなければならない。湯加減を見るにも湯に直接手を入れないで手桶にお湯を取ってから温度を見たものです。手を直接入れると私の手の油がわずか でもお湯に移る。それが翁先生にわかるわけですね。それは《弟子の道にあらず》です。
それから寝る場所は違って隣の次室であっても、常に呼吸が合っていなくてはならない。そんなことが内弟子のすごいところですね。

Q:二木謙三先生が玄米食を推奨されていたわけですが、盛平先生もこの影響を受けておられたのでしょうか?

阿部師範:

 私の家に泊まっていただいたときには必ず玄米食をめしあがっていただきました。二木先生から合氣道を紹介された当初から「植芝盛平という私の合氣道の先 生には、玄米食をしていただくようにしてください」と言われておりましたから。盛平先生が私の家へいらっしゃるようになったときに私はこのことを盛平先生 に伝えたのです。盛平先生は「そうか」と言ってめしあがってくださいました。

6. 古事記と二木博士

Q:阿部先生も古事記をもとに合氣道を解説されているのですか?

阿部師範:

 私は古事記の解説はまだしていない。たくさんお弟子さんがならいに来てくれているけど、これが古事記だということはあまり言ってません。
天之御中主神(あまのみなかぬし)」と言うとき、宗教家だったら偶像的な神様を造り、拝みなさいと言う。二木先生は世界に通じる医者ですから、そういう偶像化をされずに言霊(ことだま)ではなくて現在の言葉で解釈された。
二木先生の「天之御中主神」は、「天(あめ)」は敬語、「之(の)」は接語・・・みんな取っていったら「中(なか)」と「主(ぬし)」だけが残るわけで す。つまり二木先生の「天之御中主神」は、どこかにおられて見ている偉い神様ではなくて、われわれの民族の一番はじめの人だと。そして、二木先生によれ ば、「天之御中主神」は中心が大事だということを教えた人だと言うんです。生きている人間にはみな中心がある。その中心をつかんでそれを大事にしなさい と。
いまの合氣道は円の動き。中心を見つけてみな円に導きなさいと。現在の合氣道も同じこと。自分が中心で相手を自分の円の中や円の外へ、うまく遠心力と求 心力に合わせて丸め込んでおさめてしまう、そういうふうな究極の技。それだけでなく、円は立体になったら螺旋になる。そうい う、物事の中心が大事だということを教えた人が「天之御中主神」だと。
家の中の中心といったら、たとえば朝起きれば奥さんが中心、それから朝御飯では旦那が働きにゆくから中心が変わって旦那、その次が子供が学校へ行くから 家の中心が子供になる。みな出ていってしまったら奥さんひとり中心になって留守番をいしている。だから中心が非常に大事だと二木先生は仰る。いま私がしゃ べっているから3人の中で私が「御中主」。あなたがしゃべったら今度はあなたが中心。中心は移動する。
「天之御中主神」は神様と違う、偶像と違う。それが二木先生の古事記の解釈なんです。

Q:翁先生にとってもやはり古事記が主体にあると思われますか?

阿部師範:

 技を説明する上ではね。それからこの国で絶対変わらないのは古事記だけ。民族の伝承だから。それが日本の神道ですね。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・ 天照大神までが日本の道です。一番信用できるのが天之御中主神から神世の3代5代7代までのもの。これを読もうとすれば、出口和仁三郎聖師の解釈が非常に 適切である、言霊的にはね。

Q:二木先生と植芝先生が古事記談義をしたらおもしろそうですね。

阿部師範:

 おもしろいと思いますよ。
大本の古事記がわかった人には二木先生の古事記はものすごく分かり易いと思いますよ。又その逆も言える。二木先生の御中主の中心がわかった人は、出口和 仁三郎聖師の説く中心が非常によくわかる。ただ二木先生のは宗教的な神様ではない、現在の医学から見た中心説やな。いわゆる宗教ではない。翁先生のと二木 先生の古事記の解釈にはそういう違いがあるけど、どちらもそのことに関してはお話はしておられないと思います。

Q:植芝先生は北海道時代の話をされることがありましたか?

阿部師範:

 北海道での禊の話をよくされましたね。零下何度のところで水をかぶって行をした話で、氷がものすごく厚くて、最初の氷は苦労して割ってからすくった水を かぶって行をしたと。あくるひには、底の氷は周囲のより薄くなっていたので、それほど割るのに苦労せずに行ができた、とおっしゃっていました。

7. 道歌と植芝盛平翁先生

Q:道歌を通してみた植芝先生は?

阿部師範:

 道歌を通してみた翁先生をみた場合、ずーっと一貫したものがありますから、以前に道歌の表現として戦前・戦後と分けましたが、分けない方がいいと思います。

 大先生の対象は人ではなく宇宙であり、宇宙と共の平和ですから、戦後はもちろん戦前でもそれを詠っておられる。ですから、分けずに一貫した道歌に注目したほうがよい。
戦前も戦後も一貫して「武は愛なり」ということで、剣も「活人剣」として説明しておられますから。「武は愛、和合なり」ということを一貫して言っておられます。

Q:植芝先生は道歌をよく墨で書かれたのですか?

阿部師範:

 ペンでよく書かれていましたね。大先生の手帳というのがありまして、私の家にも一冊あります。家宝にしています。字がたいへんうまいですよ。
大正末、井戸端で悟りを開かれた頃から、翁先生はずっと日記を書かれているんです。大先生は学問が深かったから、いわゆる書道でいう変体仮名を使ってらした。例の手帳をいつも鞄の中にしまわれていて、そこにペンで歌を書かれていたんです。
道歌の中には大本の宗教的なものも含まれますが、やはり中心は、大本も乗り越えた、この国のいわゆる和の精神、和の言霊に繋がっている。そういうふうに 歴史的に見られるほうがよいと私は思います。道歌には植芝盛平翁先生として筋の通ったものがある。行によって悟りを開き、それが盛平翁先生を大きくして いった。それは道歌の中にたくさん詠われている。「小戸の神技」ということでね。実際に書かれたものは7,8種くらいあります。
盛平翁先生を盛平翁先生たらしめたのは、大東流や大本の影響にももちろん因りますが、はじめから植芝先生がやられている行、禊の行です。先生は「合氣道 は禊だ」とおっしゃっていますよね。言葉を換えれば「小戸の神技」であると。これは一番大事なことだと思います。植芝先生がとことんずっとやってこられた のは「小戸の神技」に尽きると思います。

 植芝先生は、書の文字の中にいらっしゃらず、書の響き、光の中にいらっしゃるわけです。合氣道の技でも同じで、目に見える技ではなく、目に見えない技の中に先生はいらっしゃるわけですね。

Q:今後先生はどのように盛平先生の心を伝えていかれますか?

阿部師範:

 翁先生へのご恩返しということで、まず翁先生が書かれた多くの作品を持っておりますので、遺墨集を出そうと思っています。原稿は以前吉祥丸先生の監修を 経ておりますが、その他にまだ未発表のものもあります。なかなか進まないんですが、できたら全世界の支部に送りたいと思っています。
作品にふれることにより翁先生を知らない人にも直に翁先生を感じ取っていただきたいと思っています。次に、盛平館という盛平翁先生の書作品の記念館を建 てたいと思っています。全世界の合氣道修行者が来て下さって、翁先生の書に親しんでいただきたく思っています。「宝のもちぐされ」ではなく、宝物をみなさ んにお見せして、それを吸収していただきたいですね。

 

-おわり-